世界遺産の【興福寺】に参拝してきました。No.1

■興福寺
世界遺産の「興福寺」に参拝してきました。

 

興福寺の起源は、天智朝の山背国「山階寺(やましなでら)」とされ、鏡女王が夫である藤原鎌足が重い病を患った際に、回復を祈願して釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられています。また、山階寺は興福寺の別称とされています。
 

壬申の乱(672)後、都が飛鳥に移った際に山階寺も移転され、その地名を取って「厩坂寺(うまやさかでら)」と称されました。さらに、和銅3年(710)平城遷都の際に、藤原不比等の計画によって現在の場所に移され、「興福寺」と名付けられました。
 

天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が次々と建てられ整備が進められました。特に摂関藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられました。
 

平安時代には春日社の実権を掌握し、大和国を領するほどになりました。また、鎌倉・室町時代には興福寺が実質的に大和国の守護を務め、幕府による守護は置かれませんでした。
 

徳川政権下においても、文禄4年(1595)の検地で春日社興福寺合体の知行として2万1千余石と定められました。
 

明治時代はじめ、興福寺は神仏分離令、廃仏毀釈、社寺上地令などによって荒れましたが、その後は寺僧有縁の人々の努力により興福寺の復興が進められています。
 

興福寺は法相宗の大本山として知られ、平成10年(1998)には世界遺産に登録されています。

 

興福寺1
 

■東金堂(とうこんどう)【国宝】
「東金堂」は、神亀3年(726)に聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気全快を願って建立されました。

 

東金堂は度々火災に遭い、創建以来6度の焼失と再建を繰り返し、現在の建物は応永22年(1415)に再建されたものです。
 

東金堂は、正面7間(25.6m)、側面4間(14.1m)の寄棟造り、本瓦葺きの建物で西向きに建てられています。また、前面は吹放しで木割りが太く、奈良時代の雰囲気を伝えています。
 

創建当初は床に緑色のタイルが敷かれ、薬師如来の浄瑠璃光(じょうるりこう)の世界が表されていたそうです。
 

堂内には、【重要文化財】の本尊薬師如来像(やくしにょらいぞう)と日光・月光菩薩像(にっこう・がっこうぼさつぞう)、そして【国宝】の文殊菩薩像(もんじゅぼさつぞう)、維摩居士像(ゆいまこじぞう)、四天王像(してんのうぞう)と十二神将像(じゅうにしんしょうぞう)が安置されています。

 

東金堂1
 

■五重塔【国宝】
「五重塔」は、古都奈良を象徴する塔です。

 

塔は仏教の祖釈迦の舎利(しゃり)〔遺骨〕を納める墓標です。
 

天平2年(730)光明皇后により創建されました。その後5回の焼失と再建を経て、現在の塔は応永33年(1426)に再建されたものです。
 

塔は高さ50.1mの本瓦葺きで、軒の出が深く奈良時代の特徴を残しつつ、中世の豪快な手法も大胆に取り入れ、大変力強い印象を与えます。
 

創建当初、初層には東に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、南に釈迦浄土変(しゃかじょうどへん)、西に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄土変(みろくじょうどへん)が安置され、各層には水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょう)が安置されていたと伝えられています。
 

現在も創建当初の伝統を受け継ぎ、初層には東に薬師三尊像、南に釈迦三尊像、西に阿弥陀三尊像、北に弥勒三尊像が安置されています。

 

五重塔
 

■三重塔【国宝】
「三重塔」は、康治2年(1143)に崇徳天皇の中宮により創建されました。治承4年(1180)に焼失し、現在の塔は鎌倉時代の前期に再建されたものです。

 

三重塔は高さ19.1mの本瓦葺きで興福寺最古の建物です。木割が細く軽やかで優美な線を醸し出し平安時代の建築様式を伝えています。
 

初層内部の四天柱(してんばしら)をⅩ状に結ぶ板の東には薬師如来像(やくしにょらいぞう)像、南には釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)、西には阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)、北には弥勒如来像(みろくにょらいぞう)が各千体描かれています。
 

さらに四天柱や長押(なげし)、外陣(げじん)の柱や扉、板壁には宝相華文(ほうそうげもん)や楼閣(ろうかく)、仏や菩薩など浄土の景色、あるいは人物などが描かれています。

 

三重塔
 

■中金堂(ちゅうこんどう)【復元予定】・仮金堂
「中金堂」は、興福寺伽藍の中心となる最も重要な建物で、和銅7年(714)藤原不比等により創建されたと伝えられています。

 

当初は桁行7間、梁行4間の寄棟造で、屋根は2重で下の屋根には裳階が付き、その規模は当時の奈良朝寺院の中でも最大級だったようです。
 

中金堂は創建以来度々焼失と再建を繰り返した後、文政2年(1819)に仮堂として再建されました。
 

堂内には本尊釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)、薬王・薬上菩薩像(やくおう・やくじょうぼさつぞう)、四天王像(してんのうぞう)などが安置されていました。
 

近年、文政2年(1819)に再建された仮堂の老朽化が進んだため、昭和50年(1975)に旧薬師寺金堂が仮金堂として講堂跡に移建されました。
 

平成12年(2000)に仮堂は解体され、天平様式の新たな中金堂が復元される予定になっています。

 

中金堂
 

この他にも「南金堂」など幾つか歴史的に貴重な建築物がありますのでご紹介したいと思いますが、続きは後日にさせていただきます。
(参照:興福寺ウェブサイト・案内説明)

 

 

 

兵庫 リフォーム NEXST 片山でした。

 
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